昭和49年06月30日 交通安全大祈願祭



 今年もおかげで良い大祓いの式を終らせて頂きました。それよりもおかげを頂きまして、大差なく御信者の皆様、または御信者じゃなくても大祓いの時だけでもこういうてお願いにあがる方からも、本当におかげで病気もせずに車などの事故にも会わずに一年間おかげを頂いたという御礼のお言葉やらお手紙やら沢山頂きました。もう本当に有難いおかげを頂きました。丁度去年が車は千台からのお祓いをさせて頂いた。それがね例えば大差なくおかげを頂いたと言う事は、大変な私は大奇跡だと思うですね。
 そういうおかげを今年もまた愈々頂かせて頂くための言わばお祭りで御座います。今日お祓いのお祭りをさせて頂きましたこと、最近私が思うております事やら、暫くの間聞いて頂きたいと思います。大体プロのお祭りは、いうならば守るね。家を守る国を守る守るお祭りだと思うんです。例えば八月の十六日が夏の御大祭。それを夏の祈願祭とこう申します。是は私は攻める祈願のお祭りだと、今日のは守る祈願のお祭りだと言う風に感ずる。例えば色んな災難がかかってきておりましても。
 外からこうやって攻めて来る物がありましても、是を防げるだけの力を頂くというのが今日のお祭りですね。ですからおのずとお祭りの内容が違うて来る。夏の八月の十六日の祈願祭は同じ祈願祭でも、諸事繁盛のお祭りです。是はこれから愈々より豊かに、より生みなして行く事を願うて行く祈願のお祭りです。だからもうどちらもです是を大事にしなければなりませんし、同時に私はお道の信心のおかげという内容が、こういう二つの祈願にまあ、掛かっている様な気が致します。
 外部からの言わば災難を除けさせてもらう。それを防ぐだけの力を頂く。または八月の祈願祭には、よりおかげを頂いとります。けれどもよりおかげを豊かに広く大きく頂きたいという、愈々諸事繁盛の大みかげを頂かせてもろうてお役に立つ氏子にならせて下さいというのが八月の祈願祭。だから今日は分けてありますけれども、実を言うたらその内容が何時もの私共の信心生活の中に、それが姿勢として現れて来なければいけないと思うのです。ただそれは日々の信心でも。
 ただあれの為にこれをお願いしますというだけの信心もあります。そういう信心は、だから今日の祈願祭の様なもんじゃないでしょうか。例えば今日の場合なんかは、一年に一回、しかも隣の方に近所の方に又は知り合いの方に勧められて、初めて自動車のお祓いを用紙一枚でね、あの「はらえつもの」だけでおかげが頂けれるというのですから。そういう面も確かにある。そういう面が無くなった信心を私は死んだ信心だと思う。生きた働きがある所では、そういう信心は出来ませんけれども。
 例えば願うなら願っただけでおかげを頂く。近所の方が病気をしておられるといえば、お取次を願われ、本人は知りもしなされん。それでもお願いをした人は、神様のおかげだなと思わにゃおられん程しのおかげを頂いて行くという事実がありますね。だからそういう働きが無くなった宗教は、私は死んだ宗教だと思うんです。例えばそういうおかげを頂きますと、今度は悪く取る人はです。ただご利益専門の信心なんてんちゅのもある、所がどっこい私は守る信心、攻める信心と言う様な事を申しておりますが。
 その内容としてです。愈々信心を解からせて頂かなくてはならない、生き生きとした信心を解からせてもらわなければならないと言う事になるのです。今日私は神様に御祈念させて頂きました時に、一番に頂いた事は、私共がお風呂の時にお湯を掛かりますね。掛かりますと、あの水滴というか湯のあの水玉がね、体に掛かるでしょう。あれはね私共が生きておるからなんです。昔私は気が付かして頂いたんですけれども、草履を買う時にはね、やはり生きた草履と死んだ草履がある。
 それを素人が一番分かるには、水滴をおいて見るがいい。水をちょっと落として見る。そうすると死んだ草履はくるっと落ちる。けれども生きた草履を使ってあるものは水滴は溜まる。私共の生きた肌に掛かると水滴は止まる。私は金光様のご信心は大体生きた働きが目の当りに見える信心ですけれども、同時にそれは生きた信心を私共がさせて頂くから、いわゆる水滴と云う事は私はお恵みだと思うですね。お水の恵み、恵みを受けると言う事。それが私共がどうしても生きた心。
 生きた信心、生き生きとした信心を、先ずなさらなければいけないと言う事。例えば心が死んでおっても枯れておっても、第三者から願われただけでもおかげを受けると言う所に、生きた信心がある。是はただおかげを受ける、いわゆる御利益というだけであって、本人自体は何にも大した事ない事になります。例えば、お願い致します、おかげを頂きます様にと言うて願いましても、枯れた木が手を差伸べておっても、神様は是は伸ばし様があんなさらん。
 是には葉が繁ります様に、花が咲きます様に、実が実ります様にと言っても、これは神様とても、もうそれは枯れ木に花という言葉がありますけれども、それはその時だけのもの。年々歳々と言う事には出来ません。そりゃ信心には奇跡は付き物ですから、枯れ木に花が咲く様なおかげもありますけれども、それはそれだけのもの。そこで私共が生き生きとして、大地からの養分を受けて、そして助けて下さいと言う事に成って来る時にです。それを伸ばしも出来れば、刈る事も出来る花も咲きゃ実も実る。
 しかもそれは年々歳々太って行けるというおかげ。そういうおかげを教祖金光大神は天地金乃神様からご依頼を受けられて、世の中の難儀な氏子にそういうおかげを渡してくれ、そういう信心を取次いでくれよ、とご依頼になったのが立教神伝だと思います。欲を放して、そして取次助けてやってくれという神の願い神願であります。その神願が愈々成就して行く事の為に、お互いが精進させて頂くと言う事がお道の信心だと言う事になります。それなら神の願い言うなら神の神願というのはどう言う事かと。
 氏子一人一人の上に神様が願いをかけて下さる、その願いというのはどういう願いか。私は最近合楽をお互いの心の中に自分の家庭の中に合楽を頂くのだ、合楽を打ち立てるのだと。先日から山口県の下田という教会の先生がお参りになっとられました。何回かお参りになられました。わざわざ御礼参拝されましたのは、おかげの泉をずっと送って差上げておる。もうこの頃はおかげの泉を一月間お取次をさせて頂きよる。
 それももう一下り一区切り一区切りをいわゆる我流ながら御理解を自分の信心とそのおかげの泉を元にしてお話をさせて頂きよる。こういった光る様になった、あまりにも段々多くなる。本当におかげの泉というあの御本はです。看板に偽りはないと言う訳です。有難い、確かにおかげの泉ですよと言う訳です。これはもう不思議なことにですね、もう合楽に日参りやらお参りなさった方々は、おかげの泉を読んでおかげ頂きましたとは聞かんですね。素晴らしい事が書いてありましたとは聞かない。
 けれどもやっぱり遠方の人はですね、それに縋っておかげを頂く。何回も何回も繰り返し繰り返し頂く。そしてそのお話の深意に触れる。そして心の中に喜びを感じる。それが、もう次のおかげになっておる。そろそろ四時で下がる頃でしたから、下がってお食事でもさせて頂いた。私と久富先生と三人で、炬燵の間の向こうの泉水の前で、お神酒を召し上がりますから、お神酒を一献差し上げてから、すると一番最初に言われた事は「ご両親様はお元気でしょうか。」という。
 「あぁもう元気でおりますよ。」おかげで元気で母は朝の御祈念に母は、はいはいしながら出て来ます。それを時々おかげの泉で、お父さんお母さんご両親の事が話に出る訳です。合楽の信心の基はあちらのお母さん、是非今度お参りしたらお会いして、ご挨拶をしたいと思いよりましたから、会わせて頂きたい。それで私は案内してから行かれました。本当にこちらのご両親こそ、いうならば極楽の世界に住んでおられる様なお方達ですねと。いわば九十歳にもなって痛いもかゆいも言わず。
 しかも先月ちょっと暑かったでしょう。たどんの火鉢が入れてある。父はまだあれを外さない。けれどもまぁいうならば、どちらから眺めても甘な、辛なに不住しない、それこそ暑いの寒いの言わない。夏でも涼しい、冬でも暖かい、それこそいつも三月花衣というのを、昨日部屋の中から感じた。同時に先月からの話を頂いて、おばあちゃまが、こう年とって髪が打ち散かり見苦しいから家内が切ってあげると言った。まあそれも良かのと言いよったけれども。
 そあと妹が来た所が「五十枝さんは髪を切ってくれると言うけれども、まだじっちゃまがおる間は髪は切られん。」と言うたと言う様に。仲睦まじいまあだね、私は十八歳あなたは二十歳と言う様な雰囲気があると言う事。それこそ使うて減らぬ金百両という。弟が戦死致しましたから、私は金の百円も両親にあげた事はありません。それでもその沢山お金を頂きましてね。丁度そんなそれでもう是は随分前でしたけれども、私に洋服ダンスを一つ買うてくれた椛目の時代にですかね。
 買うて貰ったけれども買うてやった事がない。それでもそこにですね、着るも使うもの一切に不自由の無い生活をさせて頂いておる。第一です。痛いかゆいが無いと言う事が素晴らしいです。それはもう、八十、九十になる事ですから、全然無いと言う事はありませんでしょうけれどもです、さあ皆んなの手を取ると言った様な事もないと言う事です。それこそ、死んでも生命がある様に、こういう生き方をする人達の上に、そのまま、その極楽はあの世に続くんだと私は思うです。
 いうならば、魂の世界にそう言う物を持って行かれるというのが、死んでも生命がある様にと言う事だと思うんです。そげな馬鹿な事が、それは言うだけであって、出来ないと言うけど出来るんだ。雪の三月花の衣のおかげが受けられる。私十八歳あなたは二十歳と言う様な、使うて減らぬ金百両と言う様な、死んでも生命がある様なおかげを頂くと言う事がです。私は金光大神、お取次を頂く天地の親神様が、氏子に信心をしておかげを受けてくれよという神様を。
 教祖金光大神に行じられになられたそのおかげというのは、そういうおかげを日々楽しみ、喜び勿体無い様な生活をしてくれと言う事だと私は思う。ですから病気が治りましたとか、今年はおかげで自動車事故に合いませんでしたというだけのおかげではないと言う事です。そこで合楽で、なら両親だけではありません。私共一家中の者が、お互いそう言う様なおかげをもって、この世極楽のおかげを頂き現わすと言う事。
 そこで皆さんの家庭にもそういう雰囲気が、いうなら極楽ムードが生まれて来る様なおかげを頂いて、限りないおかげを頂いて下さい。どんなに億万の金を貯めたと言いましても、どんなに地位や名誉が出来たと申しましても、それがね自分の心の上に有難い勿体無いを感じないとするなら、それは極楽じゃないのです。持った地位や持った財産がかえって重荷になる位でしかないと私は思うです。先ずはだから心が助かると言う事です。その小笠原先生が言われました様に、本当に此処こそが本当の合楽でしょうという。
 私は最近その事を自分で感じておったから、愈々この自分の頂いているおかげを皆さんに聞いてもらおう、実際に見てもらおう、分かってもらおう、合楽を手本にして、合楽で皆さんが受けておるおかげをそのまま家庭で現わす所の精進をなさらなければいけないと言う事です。一緒にお相伴させて頂いておると、どんな事からかお歳がちょうど久富先生と友達なのです。それにまあー小笠原先生の場合は六十四・五位にしか見えませんね。私と友達と言ってもいい位です。若いです。
 それで若いという話からです。久富先生はお爺さんの様にしてありますが、今からハワイへ行こうかと言っておりますと言ったら、大変感動されました。そうですかまた内には、ブラジル行きを思い立っている修業生がおりますと申しましたら、「先生どうでもハワイにブラジルに合楽を建てて下さい。」と言われるんです。私はその時大変感動いたしました。先生あなたは素晴らしいことを言ってくださったですね。
 ただ布教に出るじゃない、合楽の信者と言う事ではなくて、合楽の信者の全てが、合楽そのままのいうならばおかげを家庭の中に、ハワイにもブラジルにも合楽を創って下さいと言う事がです神様の願いだと私は思うのです。どうでしょうか皆さん、本当に合楽を感じていらっしゃるでしょうか。何事もおかげを頂く、お参りをすればどんな心配事があっても安心になる。
 またああいうおかげも頂いた、こういうおかげも頂いたと言う事は、毎日いとまが無い様におかげを頂いておるけれども、全体的にいうてです。合楽のお互いの家庭の中にあるかどうかと言う事です。丁度段々今頃合楽では感じられる様なおかげを皆さん受けておられる。先日から謝恩祭が続いておりますから、桜井先生も必ずおかげを頂かれる。「先生、私は今頃信者さんのお宅に宅祭におかげ頂いてから、もう是は本当に思います事にはね、やっぱり宅祭をされる所は違う。
 是が本当の極楽ムードで有ろうか、合楽ムードで有ろうかと言う物をお家の隅々に感じます。と言う事を桜井先生が言われます。言われていて成程本当だなと思うんです。第一ね、家の構えが違うとる、美しくなる、何処も綺麗になる、部屋へやのムードが合楽的になる。花から、私が書いたものが軸になったり額になったり、それに色んなそこなりの置物を置いて、言うならば非常に美的感覚がこう冴えて来た。
 私は極楽の一つの条件としては、極楽に汚い所があるはずはありませんよね。極楽に見苦しいと言う所があるはずはありませんよね。その為に私共がです美的感覚を一つやはり身に付けて行かなければならない。同じ額や壷が有りましてもです、おしめを散らしたり、汚れていたりと言うならばね、炊いたご馳走がご馳走になりません。大したご馳走が無くてもですね、部屋が綺麗に片付いていて、花の一つも入れてあると言った様な雰囲気こそが、私は極楽の雰囲気だと思うんです。ですからそれだけではいけません。
 中に住む人間がそうならないけん。そこでです私は最近合楽ムードというか合楽のおかげを皆さんの家庭に頂いて貰いたいと言う事を、口を飽きる程申しておりますが、その内容として真善美のおかげを頂かねばならないと言っております。真善美とは、真とはまこと、その反対はうそと言う事です。嘘と真、まことの裏はうそであり嘘の表は真である。そこで、うそのある生活があって極楽とは言えない。真実の生き方を願い求めると言う事なんです。一歩でもそれに近付いて行くと言う事です。
 もう私の完璧な真と言った様な事は有り得ません。だから本気でまことになろう、まことの人にならせて頂こうという精進がなされなければいけない。次に善、善導寺の善です。善の反対は悪です。悪があって栄えた試しはありません。ですから悪ではない善を私は追求する。善と云う事は意味が深いですから、間違えない様にしなければいけませんけれども、とにかく善の人になろう善の家になろう、善の社会を広げて以降という願いを立てなければいけません。
 ただ今申します様に、儀の社会でありその反対は醜であり見苦しい汚い。ですから私共の心の中から見苦しい汚い、自分ながらそれこそ浅ましいそれに気付かせて頂く事もありますが、そういう様なものを私共の心の中から取り除いて行くと言う事を改まりと申します。そういう精進を私はさせて頂くと言う事、いわゆる真善美の世界に住む事。それ金光大神のお取次下さる天地の親神様からの御理解のみ教えの内容は、氏子どうぞ信心して真善美の世界に住んでくれよと言う事だと思います。
 今日一昨日秋山さんのお宅でまあ秋山さん達を信心の先代というなら、光幸君達の夫婦が二代を継ぎました。娘達も信心をする様におかげを頂いております。その長男の光幸君に今度長男が生まれました。息子の子長男です、秋山さんが今日言われるんです。「だいたい秋山の家に息子が生まれると言う事はもう不思議な位です。」ずうっと女ばかりで、今の秋山総代さんもご養子ですと言う様に、それがおかげを頂いて息子が誕生させて頂いた。見れば見る程秋山の顔をしている。
 だからその秋山の顔をしておると言う事が、おかげと同時にまた巡りなのです。いうなれば愈々真善美のねおかげを頂いてこそ初めて真善美の人相をした子供が出来るの訳です。お名前をというから、名前を神様にお願いさせて頂きましたら、御先祖の大変な大事と頂ました。秋山の御先祖。そうでしょうね、三代目が誕生したのだから、先祖が喜ばないはずはありません。それで私はあのう秋山さんのお父さんの名前が。
 秋山せいきと申しておられましたので、だから御先祖の名前を頂いて、豊喜という名前豊かな喜びと頂きました。そして光幸君にようく感謝する様にようく話して下さる様にと。先祖が此の様に曾孫が出来た事を喜んでおられるのだから、この喜びを裏切らない様に夫婦睦まじく仲良よう信心させてもらって、三代目四代目と無事に愈々継承させてもろうて家繁昌、子孫繁昌のおかげを頂いて行くおかげを頂かなければならないという、御理解が豊喜という名前の中にあるのです。
 此の事を光幸さんに良く分かる様に話してくれと申した事であります。私は根が喜ばずして、根が助からずして、根が栄えて行かずして私は、幹が栄えた試しはないと思う。ですからまず根が栄えなければならない。次の根が心で次の根がお嫁の事を言うという、そういう一切の根を大事にさせて頂いて、愈々家繁昌子孫繁昌のおかげを頂く、しかも頂くのであって、何処までも神様の願いに答えれるおかげでなくてはいけない。
 それをお互いが申しますならば、合楽をこのままお互いの此の家庭に現わすのだ。その内容として、何時も皆さんが頂いておられます様に、いうなら合楽の言うならば金光様がです、此処にこうしてお広前が建立になって、私が初代教会長としてそれにお引き立て頂いて、そういう神様の御神願の中にです。そういう合楽を打ち建てる事。これが前々からの神様の願いであっただろうと言う事をです、善導寺、勿体島、そして椛目、常持、合楽という信心の内容が頂かなければいけない。
 今合楽で善導を受けなければならない。今合楽の信心を教えてもらって来なければいけない。そしてです本当に自分の心の中に、有難い勿体無いの心を開かなければいけない。その喜びを、いわば自分の家庭中、自分の周辺に広げて行くのが椛目である、心に花を咲かせる所、そういう喜びを自分の周囲周辺に広げて行くというのです。それがこの喜びを常に持ち続けるという、そして合楽に合流をすると言う事が。
 今皆さんが頂きつつあられる所の合楽のムードというのがお互いの家庭に出来ているかどうかと言う事を確かめながら、信心を進めて行くという生き方こそ私は攻めるも守るもと言う事を頂きましたが、この二つの信心が足ろうて行く事になるのだと思うので御座います。今日のお祭りは、例えばただ災難が掛かって来る時もそれを除けさせて貰える所の、守って行く所のおかげがそのおかげだけならば。
 それは信心は出来なくても、合楽ムードが出来なくても、お願いをしておけばおかげは頂くという、いうならば奇跡的なおかげは現在続いております。けれどもそれだけ頂いたから人間が幸福になると言う物ではありません。そこで今申します様な、良い善導を受けて、有難い、勿体無いを焦点にする。ならどの様な信心をさせて貰うたら有難い、勿体無いに成れるかと言う事を、焦点においての信心をさせて頂くと言う事。
 そこからねそういう心で愈々五つの願いに移って行くので御座います。どうぞ体の丈夫のおかげを頂かせて下さい。どうぞ家庭不和の無きもとを頂かせて下さい。円満のおかげを頂かせて下さい。どうぞ愈々子孫繁昌、家繁昌のおかげを頂かせて下さい。この三つのおかげを頂きません事には、本当の御用になりません。どうぞお役に立つ御用の内容を頂かせて下さい。神様の願いである所の神願成就の大みかげを頂かせて下さい。そういう御用に私を使うて下さい。
 そういう私は五つの願いと言う物がはっきりして来る。その為には私共が愈々おかげを頂かなければいけない。ただ、自分よりマイホーム的なというより、同時に極楽という其ではありません。しかし信心によってそれが頂けた時に、それをどうか人に伝えなければおれないという働きが生まれて来る。神様の願いの伝達者として、言うなら和賀心時代を創る所の運動員とならして頂く所の願いとしての信心、そういう信心が出来る、そういう心の状態で願うのである。所謂諸事繁昌も願うのである。
 そこに攻める信心も守るもおのずと身に付いて来ると言う事に成るでしょうか。どうでも、いうならば合楽を皆さんの家庭の中に頂いて頂きたい。そういうおかげが神様の願いであると私は信じます。私は昨日麻生さんのご案内で、福岡へ参りました。福岡で今中国展が開かれております。その中国展が今日までです。今日は大祓いで行けないから、今日もよんどころ無しに、行く積りではなかったけれども、行かなければならない様な事になりましてから行ったんです。
 まぁ本当に見事な物を見せてもろうて、そして帰りにお豆腐料理を頂きました。それから、初めて豆腐料理なるものを頂いたんですが、十一種類出ました。もうそがしこ頂いたら、全然ご飯がいけないくらいでした。本当に珍しいお料理を頂きました。私があちらに参りましたら、文男先生達が買物に、今日のお祭りだけは、全部買ってからお供えするんです。それは全部各会の方達が何時もは祭典費をお供えなさるんです。
 今年はその祭典費は来てないんです。それで文男先生が一人で出し変えているらしいんです。ちょうど私達が喫茶店でお茶を頂いている時、前を通ったんです。今のは文男先生だった。と言って追いかけて行って、それから言った。それから秋永先生がみえる、竹内正教さん兄弟が来て、ちょうど十人になりました、合楽の者ばかっりが。そしてもう、色々有難いおかげを頂いて参りましたが、私はそういう、いうならば沢山のお金を散財した訳です麻生さんが。
 だからただ美味しかった、面白かっただけで過ごしては、私は相済まぬと思う。だからその事お私は信心の一つの良心、いうなれば責任を感じる。それだけの散財をしておるんですから、例えば一万円使うたのならば分かり易くいうならば一万円神様の事に使うたのなら、二万円返ってこなければ馬鹿らしい。また私はそういう責任があると思うのです。合楽でどんどんお供えをしているけれども、それだけお家の中がマイナスになって行くと言う様な事ではならないと思います。
 お供えをさせて頂けばさせて頂く程のおかげを頂くと言う様なおかげになって来なければいけない。それでその事を今朝からお願いをさせて貰よったら、ただ『竹』という字のね足が短い所を頂きました。竹という字だな竹内先生の竹です。点々がちょって打ってある。だからそれを言うならば竹冠と言う事です。でも私は竹に感じるんです。でも少し足りないなぁと、でも足りない所を私は祈らせて頂いて、勿論竹と言う事は素直と言う事だろうと思います。商売人にとって月末といえば離されないのが普通です。
 それで昨日七人の方達は皆商売人です。離されないのにやっぱり晩の十時過ぎまでもお付き合いをして、あちらこちらに連れて行って下さった。それだけの事を皆さんがなさっておられるのですから、それだけがたある所の願いをさせて頂かねばならない。いうなれば、信心のない人が、例えば千円の御初穂をしてから、今年もお願いしますと言うてお供えなさったり、願ったりなされば、それを本当に利かなければだめだと思います。そう言う物を私は感じる。足のちょっと足りない所を。
 私も色々工夫して貰よりましたら、今朝の御祈念の後総代の久富繁男さんが今日の朝の御祈念中に麻生さんのお知らせを頂いた。麻生さんがね親先生の前でお頂戴をなさっておられる所を頂いたと言うんです。だから是だけの事をしたばってん、おかげを頂く事を確信しておる訳です。だからお頂戴をしていたと頂く事は出来るけど、いうなれば本当に合楽の親先生が最近言われる。真善美のおかげを頂きたいそういう信心を頂きたいというてお頂戴をしておられるのだろうと私は思います。
 同じ頂くと言うても、おかげを頂くというのでなくて、信心を頂くという姿勢を作らなくてはいけない。それにはまず本当に純粋な素直さが求められるのです。信心にはね。それが合楽にお願いしておったら一年間無事故であった。しかもそれが例えば、十年なら十五年も続いてご覧なさい。やっぱり拝まにゃ居られんです。中村さん所の養子さんが久留米の報国タクシーにお勤めになって十四、十五年にもなるでしょう。それこそ一辺の事故も合った事がない。
 あの家に行きますと、お母さんの部屋にずうっと無事故であった表彰状がつけられてある。それけんなら運転が大変上手か、運転が大変丁寧かというとそうとも思われない。例え出合っても是は仕方がない。事故災難と言う物は。だから例えばおかげが受けられると言う事がです、それはふが良かつけんという人が居ますけれども、そこを素直に信じておかげを頂いて行くという素直さが信心にはどうしても必要です。
 そして頂きたいと言う事は、私が申しております、合楽の一つ信心を頂きたい。そうしてその上に合楽ムードが家庭の中に生まれて来るというおかげを頂いて行きたい。それは私の願いでない、金光大神のお取次ぎを下さる。金光大神の願いでもある。天地の親神様の願いでもある。神も喜び氏子も喜び、金光大神をもの喜びだと言う様な喜びのおかげを頂かして貰うと言う事に焦点をおいて、愈々信心に励んで頂きたいと思うのであります。